【綿花と人の関係④】
※ 画像は、インドの法律家、宗教家、政治指導者のマハトマ・ガンジーです。インド独立の父と称されています。
ドイツ人のカール・マルクスが、イギリスの織物産地ランカシャー地方で働く劣悪な労働者についての緻密な調査を始めた頃は綿花の大ブームが巻き起こっている只中でした。イギリスは、原料としてのインド綿を、イギリス東インド会社を通じて独占的に輸入し、価格をほぼ完全に統制していました。
当時のイギリスは、大英帝国の圧倒的な支配力と自国で繁栄を築き始めた綿花産業を守る政策を組み合わせて、徹底した保護主義政策をインドに突きつけます。
「インド人は、イギリス東インド会社を通じてランカシャーの工場に決められた価格で、良質な綿だけを輸出しておけばよい」という型に、インドの綿花関係者ははめられていきます。
インドの綿製品はすべて手で行っていましたが、品質は極めて高かったと言います。しかしどんなに原料である綿がイギリスに売れても、価格が統制された一次産品(農産物)であるため、加工賃を上乗せして付加価値が生み出すことができず、インド人の賃金は非常に安く落ち込み、手から口への生活を余儀なくされました。
(安く買い叩く仕組みが、関税障壁だったのか、インド人ブローカーを使った価格操作だったのか、またそれ以外の方法だったかは、まだ僕は納得がいくまで調べていません。インドはイギリスの植民地だったので、何らかの有効な手段があったと推測できます)
イギリスの消費者は、綿製品を安い価格で買い求めることが可能になり、庶民まで綿花の下着を買うようになったことで、非常に満足したと言われています。また原料のインド綿の買い取り価格を抑えることで、ランカシャーの繊維関連産業は、莫大な富を蓄積していきます。
一方、インドの綿花産業は、大打撃を受けました。それまでの繰綿(種を取り出す)、紡績(糸を作る)、機織り(布地づくり)、染色(天然素材だったため、非常に多くの雇用があった)に従事していた人々は、生活する手段をあっという間に失い、気候の厳しいインドでは飢餓に襲われる人々が激増します。
そんな頃に現れたのが、マハトマ・ガンジーです。ガンジーは民衆に対して「イギリスの綿製品を着用してはいけません。インドの伝統的な手法による綿製品を着ることこそが、祖国を救うのです。」呼びかけ、イギリス製品の不買運動を力強く牽引していきます。
このガンジーの態度にイギリスのウィンストン・チャーチルは激怒し、コットンをめぐるインドとイギリスの対立は次第に緊張していきます。