イギリス国内では、劣悪な環境で貧困層が働き、インド国内では、イギリスとの不公正な綿花貿易に対する人々の不満が高まっていったことは、【綿花と人の関係④】で、簡単にですが記述しました。
それに先立ち、もうひとつのグローバルな労働形態が生まれます。奴隷貿易による綿花栽培です。
イギリスのランカシャー地方で生産された綿花製品は、ヨーロッパ全土に流通し飛ぶように売れました。生産すれば生産するだけ莫大な利益が上がったのです。もっと利益を上げるにはどうしたらよいのか?イギリスの資本家がたどり着いた結論が奴隷制度です。
イギリスのリヴァプールには、奴隷市場が立ち、当時のイギリスの植民地である北アメリカ南部と西アフリカをむすぶ三角貿易の拠点として急速に発展します。
西アフリカの湾岸地域で「屈強な男性」と「繁殖力が見込める女性」を集めてイギリスのリバプールに送り、そこで奴隷の売買が行われました。値付けがされた奴隷は、リバプール港から劣悪な環境の奴隷船に乗せられ、「黒い積み荷」と呼ばれて北アメリカ南部に向かいます。
たくさんの奴隷を一度に詰め込むと、北アメリカ南部のニューオーリンズ港に到着した時点での奴隷の死亡率が高く、業者としては損がでます。逆に「積み荷」が少ないと輸送コストが割高になります。それを見極めるのが、奴隷貿易に関わるイギリス人業者の手腕の見せ所でした。
貨物船の中で奴隷ひとりに与えられたスペースは、およそ80センチ×18センチ。この環境で、3ヶ月から9ヶ月かけて北アメリカ南部に運ばれます。当初、航海中の死亡率は8~34パーセントだったそうです。
奴隷貿易が盛んだった大航海時代に大西洋を貨物船で横断するのは大変危険なものでした。奴隷は、鎖につながれて身動きできないほど詰め込まれます。スペースに無駄がないように、奴隷の頭と足を交互にして床の上に並べられたということです。
全長30メートル程度の船に414人の奴隷を載せたという記録も残っています。十分な食事も水も与えられず、多くの奴隷が、熱病やチフスで死んでいき、大きな損が出たということです。
イギリス人業者による試行錯誤の結果、平均13%の死亡率が最適値となり、効率化が計られました。
西アフリカからイギリスのリヴァプール経由で北アメリカに送られた人々は、少なくとも11万人を超えると見られています。西アフリカの家族や親戚と切り離された人々は、北アメリカ南部で「白い金塊」を「牛馬的存在」として栽培することになります。
こうした三角貿易により、北アメリカ南部で栽培された綿花はイギリスの織物工場へ輸出されました。より多くの綿製品を生産してもっと利益を上げたいという資本家の熱意は、産業革命の原動力になります。ランカシャー、リヴァプールを中心に、イギリスはますます豊かになっていきます。
北アメリカのジョージア州、テネシー州の綿花畑では、過酷な労働に耐え抜くために、「ブルース(憂鬱)」という音楽が生まれていきました。歌詞の内容は様々ですが「Hard(辛い・困難)」という言葉が多く出てきます。綿花畑での労働が終わると小屋に仲間たちと集まり、いくつもの曲が生まれたと伝えられています。日本では、ある時期まで「黒人霊歌」と呼ばれました。
1860年には、北アメリカ南部で栽培された綿花は、イギリスの綿花需要の80%を超えるまでになります。その量は、世界の綿花需要の実に三分の二を占めました。
インドの綿作農民は、北アメリカの奴隷労働で栽培される安いコットンと価格競争をすることができなくなり、苦境に追い込まれていきます。
イギリスの織物工場の経営者は、北アメリカの北部、カロライナ州にまで綿作農場を拡大し、莫大な利益を上げ続けていきます。