イギリスでは、綿の需要は大幅に増えていきます。もともとイギリスにはウールの下着しかなく、”白癬菌(はくせんきん)〟という真菌(糸状のカビ)の一種が、股の付け根やその周辺部の皮膚(しり、もも…など)に感染する疾患に悩む人が多かったのですが、インドから輸入するコットンの登場により劇的にその病気が減ったのです。
イギリス国内では、インドから輸入される国内の羊毛産業を保護するため、当局からウールの下着を着用するような通達が何度も出されますが、皮膚がチクチクしないで快適だということで、消綿花の下着を着用したいという消費行動は圧倒的に強力なものでした。
最後のイギリス当局による通達は、「死者を埋葬する時には、ウールの布で全身を覆うこと」というものでした。当の死んだ本人からは異議申し立てができないわけですから、それ程、当時の羊毛産業に破壊的なダメージを与える程の勢いがあったのです。
そのような爆発的な需要の増加を満たすため、産業革命が始まります。ランカシャー地方の繰綿工場(綿から種を取り出す工場=ジンニング工場)は、産業革命を推し進める原動力になっていきます。
工業労働者の置かれた環境は「悪魔の仕業と思われる程に劣悪」であったそうです。低賃金、児童労働、労働災害の多発、一日18時間の労働時間など、労働者を使い捨てにするのが当たり前の状況でした。
イギリスにおいて、さらに技術的な革新が始まります。18世紀初頭にリチャード・アークライトという大金持ちが、紡績(糸を作る工場)と機織りを、水力によって行い始めたのです。作れば作るだけ売れるのですから、当時は、イギリスの富豪という富豪がみんな、綿花を使った製品を効率よく生産したいと考えていたそうです。リチャード・アークライト氏は、綿花製品の帝国を作ったと評される程、コットンビジネスで蓄財しました。(彼の末裔はまだ調べていません)
同時進行的に、技術者達によって試行錯誤を繰り返してきた蒸気エンジンが徐々に綿花産業に取り入れられていきます。いまのように最初から完成品があったわけではないので、常軌を逸するような過酷な労働条件で技術者達は「より効率的な仕組み」の開発のために酷使されていたそうです。
この産業革命とインドからの綿花の供給によって、文字通り「爆発的」に綿製品はヨーロッパ市場に流通し始めます。生産力を増大するためにイギリスのマンチェスターでは、繰綿工場(綿から種を取り出す工場=ジンニング工場)だけで、20万人の子ども達が従事していたそうです。
労働基準などまったくありません。過酷な労働条件だと労働者が死んでしまい生産性が落ちるので、労働者が死なないギリギリのラインで工場を操業するのが優秀な管理職だったそうです。機械に挟まれたりする即死事故から綿肺病の呼吸困難による緩やかな死まで、あらゆる種類の労働災害が発生していたとされています。
(概して名もない庶民の記録というのは正式には残っていないものなので推測の表現にしています)
そうした産業革命(という名の下に行われた労働者階級の死の行進)は、ヨーロッパ全土に急速に広がっていきます。そのような産業の拡大は、ある人物に強い関心を抱かせます。ドイツの新聞記者だったカール・マルクスです。