たくさんの人々が西アフリカからイギリス経由でアメリカ南部に送られました。そこで綿花を栽培し、ヨーロッパへの輸出量を増大させていきます。
ヨーロッパでも綿花の服の値段が手頃になり、産業的な規模でのファッション(モード)の概念が次第に大衆化していきます。富裕層だけに許されていた「おしゃれ」を、手の届くものとしてとらえる人々が増えたのです。
白い金塊と呼ばれた綿花。その製品の大衆化は、さらなる綿花の需要を生み出します。
アフリカを植民地にしたフランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルなどは、西アフリカ諸国だけでなく、アンドラ、コンゴ、モザンビークなどの植民地でも綿花栽培を始めます。
アフリカは、列強諸国による富の攻防の舞台となってしまいました。背景には、アメリカ南部よりも安く綿花を輸入したいという強い期待があったのです。当時はイギリスが圧倒的に優位な立場にあり、他のヨーロッパ諸国は出遅れていたからです。
ファッションの大衆化がもたらした新たな需要は、新たな供給源を求めて残酷な手段を選びます。
まず真っ先に、現地の人々の食べ物となる野菜や果物を作っていた畑を綿畑にしてしまったのです。牧畜を生活の糧としていた人々も綿花栽培だけをすることになりました。アフリカの伝統的な暮らしは、綿花をきっかけに破壊されてしまったのです。
アフリカ諸国における「生かさず殺さず」の強制労働によって低コストの綿花栽培は拡大の一途をたどり、ヨーロッパ市場で綿製品が飛ぶように売れていく仕組みは、こうして完成しました。
(こうした単一作物の栽培を強いられたことが、現在もアフリカ諸国が貧困問題を解決できない要因のひとつとされています)