欧米列強諸国の植民地だった国々も、ヨーロッパ諸国の支配から脱却した最初の非白人国家となったハイチを始め、次々と独立運動が始まります。ハイチは土壌が豊かで、綿花などの農産物が豊富に取れました。

(そもそもコットンの種の起源は、インド亜大陸と中米地域とされています。栽培には大量の水と太陽光が必要です。1キロのコットン繊維(Tシャツ1枚とジーンズ1本)には、2万リットルの水が必要です。この条件を満たすのは、熱帯から亜熱帯にかけての湿潤・半乾燥地帯しかありません)

欧米列強諸国からの独立を果たした後、「白い黄金」が自分たちの手に入るはずだった綿花の生産国は別の問題に直面します。

低い人件費が輸出の牽引力となっていた貧しい国々は、工業技術と化学技術で圧倒的な優位を誇る先進国と価格競争をしなくてはならなくなりました。

その国がアメリカです。大量の労働力を必要とするために、西アフリカから輸入した奴隷によって栽培されてきた綿花を、今度は人手をかけずに栽培することに力を注ぐようになりました。

綿花栽培で最も人手を要するのは収穫です。その収穫は、人の代わりに機械が行うことになりました。1943年には最初の収穫期がテキサス州で使われたとされています。(アーカンソー州という説もあります)

まずこの段階で、インドやアフリカの労働者は、疲れを知らない機械と競争をしなければならなくなりました。【綿花と人の関係⑥】で簡単に触れましたが、単一作物だけを栽培する仕組みが植民地時代に完成されてしまっており、なかなか他の輸出産品を作ることができません。

さらにアメリカ綿の効率的な生産は進化します。収穫機で綿花を刈り取ると、繊維に綿花の葉から出きたゴミが混ざります。葉のゴミが混じると紡績や染色で障害がでてしまいます。その混入を防ぐために、収穫前の綿花に落葉剤を散布するようになりました。さらに除草剤、ホルモン剤と、機械化だけでなく化学薬品を使った栽培が大規模な灌漑(地下水や湖から水を供給する設備)を使って行われるようになりました。

アラバマ、ミシシッピー、ルイジアナ、ジョージアなどの南部。アリゾナ、カリフォルニア、ニューメキシコ、オクラホマ、テキサスなど西部など、現在17の州では、地平線の向こうの向こうまで延々と綿花畑が続くという光景を見ることができます。それはもはや、農業には見えず、工業でもなく、そもそも古来からそのような景色であったかのように錯覚する程です。

これだけでも、アフリカやインドなどの零細農家には脅威です。アメリカに対抗するために、借金を重ねて農薬を使うようになり始めます。そして農薬の使用量は、虫や草が耐性を持つために増加の一途をたどっていきます。

さらに貧しい国の綿農家は、絶望的な事態に直面します。アメリカ政府は、自国の綿農家を保護するために補助金を出し始めるのです。経済大国アメリカの人件費がどんなに高くなっても、機械や薬品にどれだけのコストがかかっても、アメリカの綿花は、貧しい国で絶対的貧困ライン以下の暮らしをしている綿農家と価格競争ができるのです。

このアメリカの補助金政策は、原料としての綿の国際相場を低い価格で安定させることになります。かつては莫大な富をもたらした「白い黄金」の価値は下落し、貧しい国の農家が夜明けから日没まで働いても、綿を作り続けている限りは貧困から抜け出せない連鎖を招いてしまいました。

1月 26, 2013 2:54:49PM